田舎のくせに騒がしい県道沿いに森に囲まれた目立たない脇道があります。その脇道を県道の喧騒が聞こえなくなるまで進むと私の家はありました。県道から続く鬱陶しいくらいの木々に囲まれ、小さかった私は飲み込まれるような間隔に陥ったものです。お陰様で昼でも薄暗いし夏の夜は蚊に悩まされました。なぜこんなところに建てたのだという疑問を持つにはまだ脳が発達していませんでした。まあ田舎です。田舎といえば土地代が安い。おかげで家面積としてはまあまあ広く、ちょっとしたペンションを思い浮かべて頂ければ大体その大きさで間違いありません。ちょっとしたペンションの定義はここでは割愛させていただきます。
男の子として生まれた私は最初の生活をそこでこなすことになりました。残念ながらあまりにも赤ん坊過ぎた頃の記憶がございません。ただ、今こうしてものが書けているのは、無事に育っていたのだなという何よりの証拠です。両親に感謝できることをとても嬉しく思います。
私の記憶が始まるのは三歳のころからです。両親は私には勉強を頑張って欲しかったようで、幼い私に学習セットを買い与えてくれました。学習セットは当時の私の背丈くらいあって十段くらいのラックになっていました。各段にはそれぞれにカテゴライズされた教材が入っていました。その中でも私が一番興味を惹いたのは”オハジキ”です。たくさんあった教材の中でオハジキが一番です。他の教材たちには申し訳ない。なにより買い与えてくれた両親に申し訳ない。私は、赤や青や黄の花形や丸形のオハジキたちを家の廊下で弾いて遊んでいました。私の家の廊下はツヤツヤしてとても長いと思っていました。今思い出すとそれほど長くないのですが、ただ小さいだけの私にとっては、とてつもなく長く感じていたのです。体をうつぶせにし、手足を広げ、ペタッとへばりついて、ピカピカの光沢の有難みを全身で感じ取ろうとしていたものです。夏は涼しく冬は冷たかったです。
廊下は玄関から奥の台所の入り口までまっすぐ続いていました。玄関側からオハジキを弾き始め最短何回で台所の入り口までいけるかを二枚のオハジキを使って私ともう一人の私とで勝負します。廊下にはベニアの継ぎ目の荒さによる深い海峡がところどころにありました。はまると抜け出すのは困難です。私ともう一人の私はそこに沈没しないように注意して弾いていました。とても一生懸命弾いていました。そんな私に対して母が時折、「楽しいの」と声をかけてくれましたが私は何かを答えようしてその顔をみるとなんだか残念そうな顔をしているので何も答えず聞いてないフリをして競技に没頭していました。この奥深さが分からないなんて思っていました。夏には虫も参戦しますし、夜はしばしばゴキブリさんも参戦してきました。彼らに当てると高得点と自分の中で勝手なルールを追加していました。ゴキブリさんは手ごわかったです。今考えるとゾッとしますが子供はゴキブリを怖がりません。
四歳になると家の住人が増えました。妹です。私は当時、“妹”という概念が分からずただ分かったのは赤ちゃんがいるという事実だけでした。ところで私の家は二階立てです。二階へ行くにはトイレ脇の家が広いわりに勾配が急な階段を登らなければなりません。
ある日”赤ちゃん”が階段を登っていきました。私はただ見ていて行方を見守っていたのですが、いよいよ階段の中腹に来たところで「おかあさん、あかちゃんがのぼっているよ」と声を出しました。するとそれまではお澄まし顔でいた“妹”が突然泣き出しました。私の声に振り向いて事の重大さを認識したからだと思います。母は台所からエプロンで手を拭きながらイソイソとやってきて、「あらまあ」と言い妹を抱きかかえて連れて行きました。あやうく転落するところを私のおかげで助かったのです。もうすこし褒めてくださっても良さそうですがそんな様子は微塵もありませんでした。
ニ階には寝室がありました。寝つけない日がありました。寝室の南側の窓には薄いカーテンが引いてあり月明かりでぼんやりと光るのです。私はそれが気になって眠れなかったのです。「早く寝ないとあのカーテンの向こうからライオンが来るよ」と母が言うのです。大人って適当です。子供は信じるのです。今にもライオンのシルエットがカーテンに映し出されるのではないかと怯えました。おかげでその日は一睡もできず、それがきっかけとなり、小学生の間はひとりで寝るのが苦手になってしまいました。決して怖がりとか甘えん坊とかそんなのではないことは明白です。
(つづく)
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